第一回総会

12.17 第一回総会

動画のご紹介

ゴーウェストは第1回総会を開きました。
動画の記録を、順を追って簡単にご紹介します。
まず、兵庫に避難して来られた下澤さんよりご挨拶。続けて森松さん(福島→大阪)、菊池さん(京都訴訟サポーター)、木原さん(若狭の原発を考える会)、福島さん(福島→京都、京都訴訟)、今泉さん(兵庫訴訟サポーター)よりアピールをいただきました。

次に、渡辺悦司さんより駆け足でご講演いただきました。

最後に、東京からお越しくださったぺぺ長谷川さん、佐藤さん(群馬→ハワイ→兵庫)より、放射能被害の報告や今起きていること、体験を語っていただきました。

これから避難者支援が始まります。ぜひこれを機にカンパや日本語字幕付け等によるご支援をお願いします。口座は、総会で採択された規約をもとに開設いたします。
※上記に加えて、動画の記録に字幕をつけるための文字起こしをしていただける方がおられましたら、助けていただけたらと思います。
これらの動画を直接の避難者でない方も閲覧いただくことがあるかと思いますが、避難者の方につなげていただけたら嬉しいです。
これからもゴーウェストをよろしくお願いします。


下澤さんより

先日、Gowest 総会にて、 辛く悲しく厳しい話をたくさんたくさん聞いた後に、 最後に歌を歌いました。
何か歌がほしい、といつも思ってた。
これは、わたしたちの歌、だなあ。。
私はいつも、家で皿洗いをしながら 歌っていたけれど 総会の前日、翌日の準備に集まった 仲間と初めて一緒に歌ってみた。

感動が走る。
避難者のメンバーではなかったけど、泣き出している人も。。

「わたしたち」、は避難者だけじゃない。
原発事故後に生きる日本人に、寄り添うよう
な歌。
「このごろ頭の中で鳴っているのはこの歌、ドレミドソ~ミ ていうの何でしたっけ?これ」
「ああ、いつも何度でも、ね」
友達の避難者がつぶやいたことから始まり。。
チェルノブイリ事故を体験した 歌手の方が 歌っているのを聞き、心動かされ、私が街頭で、 歌ってみたりして。
そんなこんなで今回歌うことになったこの曲。
「いつも何度でも」
粉々の鏡の上に写される新しい景色。
始まりの朝の静かな窓。
が好き。
私達はまた、未来をつかめる、希望と再生。
「私は生まれ育った東京に2度と戻ることができなくなりましたが、私の娘は今 健康な毎日を取り戻しました 。これは本当に素晴らしいことです。
ふるさとを失っても戻ることができなくなっても、命が、健康な体があればまたいくらでも歩み出せます。」
Gowest総会にて、こんな風に話して、歌いました。
2番までしか撮れていませんが(4番まであります) こんなふうに歌ってみました。良ければ聴いてください 。
初めて 歌いました。なので、 前に出てきた歌のおばさん????の声ばかりがでかいですが、そのうち 会場から声が溢れて 私の声 など消えてしまう日が来ると良いなー
一緒に歌いましょう!
原発事故後を生きる私たちは、みんな、心を寄せて!
いつか、 私たちが、光を抱ける日のために✨

『いつも何度でも』
作詞 覚和歌子 作曲 木村 弓

呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも心踊る 夢を見たい
悲しみは 数えきれないけれど
その向こうできっと あなたに会える
繰り返すあやまちの そのたびひとは
ただ青い空の 青さを知る
果てしなく 道は続いて見えるけれど
この両手は 光を抱ける
さよならのときの 静かな胸
ゼロになるからだが 耳をすませる
生きている不思議 死んでいく不思議
花も風も街も みんなおなじ
呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも何度でも 夢を描こう
悲しみの数を 言い尽くすより
同じくちびるで そっとうたおう
閉じていく思い出の そのなかにいつも
忘れたくない ささやきを聞く
こなごなに砕かれた 鏡の上にも
新しい景色が 映される
はじまりの朝 静かな窓
ゼロになるからだ 充たされてゆけ
海の彼方には もう探さない
輝くものは いつもここに
わたしのなかに 見つけられたから


佐藤さんより

私は震災後3年間海外母子避難し、その後一旦帰国した後、今年の春 娘の中学進学を機に再び兵庫県に母子避難をしてきました。
今回、初めてこういった場所で話をさせていただきますのでお聞き苦しいところもあるかと思いますが、私のこの6年間の母子避難での経験と、感じてきたこと、群馬での健康被害をお伝えさせていただきます。
我が家の場合は、震災後のゴールデンウィークに小学校に上がったばかりの娘が突然熱を出し、体がつらいとぐったりと横になって動かなくなった事からはじまりました。

病院で様々な検査をしても何も原因が見つからず、その時 主治医から「私の娘家族は震災後すぐから九州に避難しているの。ちょっとここを離れて様子をみるのもいいかもしれない」と言われたのです。

混乱の中、病院からの帰り道、ラジオをつけると、、、偶然にも市長が市内の小学校の線量の発表を始めました。

その数値は、私の にわか知識でも ヒトケタ違うことがすぐにわかり、私は驚きと怖さの中に突き落とされ、その日からほとんど寝ずにネットで放射能について調べ始めました。

低線量被曝、この言葉が何故か頭に浮かび、調べると娘の症状に一致しました。これは大変なことが起きている。福島だけの問題じゃない。逃げなきゃ子供たちが危ない。

主人とも意見は一致し、私が高三の息子と小1の娘を連れ、知り合いのコンドミニアムがあるマウイ島へ3カ月の観光ビザを使って避難しました。
この時、私たちは【この3カ月間で政府がこの事故に対して、福島はもちろん関東一円までの国民を西に避難させる政策を取るもの】と思っていましたし、それに対して私たちは何をすべきかと考え、私は《アメリカ、カナダ、オーストラリアの大使館。そして各テレビ局》に現状を伝えるメールを送りました。また、地元群馬県で 《ネット上で声を上げ始めた人たち》に連絡を取り、帰国後群馬県民として大きくまとまり子供たちを守る行動を取ろうと呼びかけました。
各大使館からは【今回の震災に対するお悔やみと日本政府から何らかの要請があればいつでも協力いたします】と言う心温まる返信がありました。しかし、そこから読み取れたのは、日本が世界に対して助けを要請しなければ各国は手が出せないと言うことでした。

テレビ局からは何の反応もありませんでした。そしてネット内で声を上げた人たちは、まとまろうと声をかけた途端蜘蛛の子を散らすようにいなくなってしまいました。
帰国の迫る中、政府が動かない、外国は手が出せない、マスコミは取り上げない、市民県民レベルでまとまれない。日本はどうなっていくのか…、、、絶望の中の帰国となりました。
娘の体調は、マウイにつくと嘘のように元気になり
この3ヶ月は健康そのものだったのに、帰国後1週間で熱が出てしまい、そのままマイコプラズマ肺炎→百日咳→再度のマイコプラズマ肺炎と続き、ほとんど学校には通えなくなってしまいました。
私は、帰国後すぐから野呂美香さん木下黄太さんの講演会に参加し、県内の土壌調査集計を行いました。

結果、我が家はセシウム合算1,500ベクレル/キログラムと言う放射線管理区域と同じ値でした。

またその頃、私たちが3カ月間海外避難している間に起きた事が聞こえてきました。

地元市内の産婦人科院長50代の突然死。お花屋さんのご主人40代の突然死。家に来る佐川急便のお兄さん、私のお花の先生、私の友人らの相次ぐ難病発症。

友人の子供たちの熱中症による救急搬送も本当に多く。中には複数回救急車で運ばれた子もいました。

主人の友人は足のリンパが腫れて動けなくなったとか、知り合いの大工さんは原因不明の体調不良で数ヶ月寝込んでいました。また、主人自身は驚くほどの皮膚炎が脇の下からお腹にかけてできたりしました。

土壌調査結果に加え、こうした健康被害の多さから、やはりこのまま子供たちをここには置いていられない。政府行政も守ってはくれないと分かり、今度は長期滞在するために、私が学生ビザを取り再び海外母子避難となりました。
英語は話せない、知り合いもいない、海外生活の経験もないと言う、、、、後から考えたらほんとに無謀な選択でしたが、その時の私は必死だったので、よく考えたつもりですが、考えるよりそうせざるを得ない状況でした。
この時応援してくれていた母から『残るも地獄.逃げるも地獄.私が死んでも絶対に帰ってくるな』と言われ、私達は戦争と同じ感覚で日本を出ました。
マウイでの日々は本当に多くの素晴らしい出会いの中沢山の方々に助けられ、留学によってできた様々な国の生徒達と知り合えた事や何もないシンプルな田舎の島での暮らしで、今までの価値観が大きく変わりました。
お陰様で、私にも娘にも親友ができ、家族や親戚と同じような関係の多くの友人ができましたが、、、長引く海外母子生活に加え、経済的にも立ち行かなくなり、学生生活に加え6つの仕事を掛け持った事で私がうつ病とパニック障害を併発して帰国となりました。
帰国後 ほどなくして再び娘は体調を崩しました。
私は放射能の影響を心配しましたが、主人は生活の変化と長引いた家族バラバラの生活の影響だと言い、再避難を相談しても事故直後は完全に一致していた夫婦の気持ちは、この3年の家族別離生活でこうしてズレが出てきてしまい、何度話し合っても、喧嘩になって物別れに終わるという事を繰り返してしまいました。
しかし、この春娘の中学進学を機に、主人からの全面賛成を得られたわけでは無いのですが、再び母子避難を決意し、兵庫に来ました。
海外避難で、全て使い果たしてしまったので、今回の避難では借り入れをしてのマイナスの出発となりました。
同じ日本語だし、今回は娘1人。私の稼ぎで何とかなるさと思ってきましたが母子避難には多くの問題が起こりました。

他の母子避難の方々ともお話ししましたが、私たちのような母子避難者は子供達にとても寂しい思いをさせてしまいます。それにより不登校や体調不良を起こす子供が多くいます。二重生活の経済的困窮。言葉文化の違いによりなじめず孤立したり。夫に合流を望んでも、そこに至れず、いつまでこの母子避難が続くのかという終わりの見えない辛さ。また、離れて暮らす夫への健康不安と自分自身の健康への不安。私が倒れたらこの生活は立ち行かなくなると言う思いで常に緊張している状態での切迫感。本当にやる事も考える事も多く、ストレスの多い生活です。
一方で地元に残っている夫もまた、大変寂しく苦しい思いをしています。二重生活は、お金が本当にかかる上に、家族に会うだけでお金も時間もかかります。夫1人の食事面での心配もあります。
実は、先月。主人が突発性上室頻脈という脈拍が異常に上昇してしまう状態で倒れ、救急搬送されました。

私は、こちらでの生活を維持するために、仕事を休むわけにはいかなかったので、一旦群馬に戻り主人を車に乗せこちらに連れてきて看病しながら働きました。そして、他の避難者の方々に勧められ、東神戸診療所という、厚生省指定の被曝専門医で検査を受けたり、デトックスの為に温泉に入ったり、マッサージをしたり。また重金属排泄効果が高いと言われるケイ素を飲ませたりしたところ、1週間ほど経つ頃には元気になってきました。

ちょうどその頃、銀行から電話が入り、自営なので、あちこちの支払いやらがあり、慌てて主人は群馬に帰って行きました。
主人が倒れた時。何故か私はやたら元気になって、“主人をなんとか助けなきゃ!”と力が入り動けていたのですが、主人がそんな風に、あっけなく忙しく帰っていった途端。へたへたと力が抜けて、何も手がつかず、涙が溢れる毎日になってしまいました。
主人が帰った後、病院に私1人で検査結果を聞きに行ったのですが、その時看護婦さんが『ご主人帰っていったんですね、ママ、大丈夫?』と優しく背中をさすって下さった途端、自分でも思いもしなかったのですが、『6年半もこんな生活してきてて、終わりが見えないんです』と、嗚咽とともに涙が止まらなくなってしまいました。
検査結果は異常なしでした。

放射能とはわからない、精神的なものかもしれません。長引く家族別離生活が病気を招いたのかもしれません。

だけどこういうことが起きるリスクが母子避難にはとても大きいのです。

他の母子避難者の中には、こういった様々な理由で、戻られた方、離婚された方が多いと聞きました。

そして、それでも母子避難を続けてらっしゃる多くの方々が、《元気のなくなっている、とても厳しい状態》である事を聞きました。

子供達は、母親から元気やパワーを貰います。

母親が太陽のように明るく居なければ、子供達も力を失ってしまいます。

ですが、頑張らなきゃと、思えば思うほど、ハードルの多さに、打ちひしがれてしまうんです。

家族避難の様に、根のおろせる状態までに、いつまで1人で頑張れるんだろう。

そんな不安がいつもあります。
時折、向こうのパラレルワールドに何もなかった事として戻ってしまいたい。と、弱気になってしまう事があります。
ですが、今、地元から聞こえてくる健康被害はどんどん酷いものになってきています。

先日久しぶりに集まったサークル仲間、男女合わせて7人なんですが、私以外すべての仲間の実家の父母、そして嫁ぎ先の義父母の半分が亡くなっていて、半分が病気や看病が必要になっている状態でした。

また、

先輩のお母さん70代

友人のお母さん70代

友人のご主人50代

主人の生徒のお母さん40代の突然死。

子供がお世話になった保育園の先生のお母様とお姉様ががん発症2週間で死亡と言うことも聞きました。

またここ最近では、甥っ子の友人18歳が白血病。姪っ子の親友16歳、後輩15歳の相次ぐ2人の突然死が3ヶ月のうちに起こりました。

塾の先生をしている知人は、子供たちの明らかな知能低下をとても心配しています。

私達が群馬にいる頃、遊びに来た娘の友達が『私最近.授業中とかに自分で何してるのかわかんなくなっちゃうの。なんかね、おばあちゃんみたいになっちゃってる。ウケる〜』と言っていて大変驚いた事もありました。知り合いの子供は、突然親の名前が思い出せなくなり、心配して病院に連れていったところ兄弟で、知能障害の診断を受けたそうです。
このような話を聞くたび、弱気になってはいけない、これからもっともっと厳しい状況になって避難してくる人が増えるかもしれないと想像し気持ちを強くしています。
留学してみて知ったのですが、他の国の人々は自国の歴史や問題だけでなく他国のことにも多くの情報を得ていて、いつでもディスカッションできるだけの考えを持っていましたし、今回の日本の原発事故についても意見を持っていました。
ですが日本人は自国の歴史や様々な問題とすら向き合っていないし、原発事故についてもどこか他人事で、考えも意見も持っていませんでした。
またマウイに行ってすぐの時は、避難してきた事を話す私に ハグをして 『大変な震災だったね、子供達の為に行動を起こした貴方は素晴らしい母親だ』と言ってくれたのですが、数年経った頃、ある方が私に新聞記事を見せ『西海岸の魚が死んだ。福島のセシウムが出た。美香はこれを知ってるのか?日本政府は何しているんだ。これを見て日本国民はどう思うんだ?日本人はなぜ政府に言わない?なぜ動かないんだ!世界中を汚染して迷惑をかけてるんだぞ』

と言われました。
私はとても恥ずかしかったです。
先日、ある方から、【生体的解決法】と言う言葉を聞きました。被害者が死んでいくのを待つことで解決させる方法、これが行政の実態だと。

私は水俣病が頭に浮かびました。

確か私が小学生の時に授業で聞いたはずなのに、つい数年前にテレビで判決が出たとニュースで見たとき、かなり前のことで昔の出来事と思っていた事なのに今頃解決?どういうこと?と思ったのを思い出しました。
なんて酷いやり方なんでしょう!
この放射能問題は、年を追う毎ににひどくなっていく事はチェルノブイリで明らかです。

生体的解決法なんて通用しないのです。

1人でも多くの東北関東の方々が、少しでも安心して西に向かうことが選択できるように。

私たちの経験をもとにここに集まった方々と繋がって道を作っていきたいと思います。
考え、意見をだし、繋がって大きな光になりましょう。
世界中の人々は見ています。

そして何より、私達大人達がどうのりこえていくのかを子供達が見ています。

長い歩みになる事は想像できます。

子供達にもその荷を預ける事になってしまうでしょう。世界に助けや協力を求める事になって行くでしょう。
ですが、まずは、私達日本人が日本人らしいやり方で、この問題に向き合い、解決していかなくてはならないのです。
その大きな光になっていきましょう。
有り難うございました。

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