ご報告
福島原発事故による放射能被害の東日本全体へ拡大し続けていることを受けて、「Go West, Come West!!! 3.11東北・関東 放射能汚染からの避難者と仲間たち」が関西で結成されました。この6年の間に関東から関西や名古屋へ避難した旧知の人々や新しく出会った人々が、「何かしたい」と今年初めから集まりました。2月にFacebookページに呼びかけ文を出し、呼びかけ人と賛同人の募集を開始。そして3月19日に大阪・長堀橋の中央会館でスタート集会「関東からもSOS」を行いました。50人以上が参加し、関東から関西などへ避難した12人の避難者と避難希望者が発言しました。ネット上で募集した呼びかけ人にも全国各地への避難者が入り続けています。
放射能被害は福島県に留まらず、関東や東北全体に及んでいます。人口が集中する関東でも危険を感じた人々、実際に健康被害が出た人々が大勢全国へ避難しています。しかし国は福島の避難地域を次々解除し、福島の避難者すら切り捨て続けています。そのため関東から避難する必要性や避難者の存在など、関東でも避難先でも「ありえない」と思われています。その結果福島の避難者と同じく避難先で孤立や貧困を強いられてきており、それで関東へ戻ってしまった人も多数います。またチェルノブイリでも重大な被害は5~6年目から激増した。今も汚染された巨大な首都圏・関東に約4500万人もの人々が残り続けているため、病に倒れる友人知人が続出し始めています。こうした危機認識のもとに集まりの結成と集会が持たれました。集会の内容を報告します。
根本樹さん
集会はまず、神奈川県小田原市から奈良県へ母子避難した根本樹さんの司会で始めました。「私は2012年に神奈川県小田原市から奈良県へ母子避難しました。子どもは当時小学生と中学生で、事故後神奈川で体調が急速に悪化したからです。私の夫の叔父も福島県なんですが、2011年に健康だったのに11年にお風呂で突然亡くなりました。また去年夫の別の叔父も急性白血病で亡くなりました。東京の叔母も肺に穴が空き、訳の分からない難病になり、神奈川の父も元気だったのに先月脳梗塞で倒れました。最近連絡の無かった神奈川の友人は、不整脈で倒れて入院していました。この話はたくさん聞きます。
関西は本当に未知の土地でしたが、関東にも様々な核種が降り注ぎ、恐ろしい物質が体内に入り込んでしまったと思い、移住を決意しました。特に避難者の方々とのつながりは持てなかったんですが、避難当初は開放感で楽しい気分で過ごしていました。けど一年後に体調を崩し、家でずっと寝込み、仕事もできなくなりました。避難移住は普通の引っ越しとは違うことなので、大変です。周りの理解も得にくく、孤立することが多いです。私は神奈川では日本の戦争責任の問題に取り組んできましたが、日本が戦前から戦後まで加害責任から逃げてそれを封印してきたことと、国が今の原発事故責任から逃げていることはつながっていると思います。だから長いたたかいになると思いますが、これまで反原発に取り組んできた皆さんに経緯を表しつつ、このように皆さんとつながっていきたいと思います。よろしくお願いします。
園良太さん
続けて2016年末に東京から大阪へ避難移住した園良太さんが、自分の体験と会の中で話し合ってきた趣旨や現状認識をパワーポイントで説明しました。資料:PDFダウンロード
「東京で生まれ育ち、3.11後は東電前や街頭で反原発デモなどに参加し続けました。2015年夏に倒れて入院し、心臓の不整脈「徐脈」と判明しました。疲労が溜まると脈が遅くなり、脈が3回に一回ほど飛びます。16年初めはそれで何度も倒れ込みました。寝込んで動けず、絶望。被曝の影響があると思いましたが、病気になると人は家や病院から出られなくなるため、被害が伝わらず、隠されていくと気づきました。現状を変えるには自分を健康被害者として名乗り上げることと、避難移住が必要だと思いました。避難移住を決意したとき、出口が見えて目の前がパッと明るくなりました。そして知人が多く、仕事が見つかった大阪へ避難移住しました。空気を吸える、水が飲める、地面に座れる、雨に濡れても大丈夫だと思った3カ月前、6年ぶりに心の底から解放されました。多くの人に助けられここまで来れました。
関東・東北の各地で、福島県中通りと同レベルの土壌汚染や水道水汚染が確認されています。また友人・知人の被害状況を見ると、3.11の健康被害が生活破たんとセットで襲うことがわかります。つまり被ばくによる病気は、身体の弱い人、野外で働く肉体労働者、食品を選べない貧者などから被害が出ます。また現代日本は親や友人を頼れない人も多くいます。すると発病した時に、1:病者が全部自分で闘病をする。2:金がないとまともな治療を受けられない。3:国の救済制度もない。たとえば末期がん患者は40歳以上しか介護保険の対象にならない。ということが大規模に生じます。
さらに放射能は目に見えないため、誰に、いつ、どのように被害が出るか事前にはわからりません。何より国は汚染情報を隠し、避難の政策を一切やらず、汚染地帯に住民を留め続けています。そのため多くの人は対策を打てず、心の構えも持てず、健康被害や避難の必要について身近で話し合うこともできないまま、汚染地帯に残り続けています。関東・東北全体の住民は約6千万人、日本の人口の半数です。つまり3.11被害の全貌とは、第一に空前の規模の環境破壊であり、第二に人間が「突然に・訳も分からずに・むごたらしく・大量に」殺されていくことです。だからまず自ら東日本から避難・移住をすることが必要です。そのために避難者が孤立しない体制をつくること。また避難には家・仕事・人間関係が必要なので、それを関西の人々と協力して東日本の住民に紹介していくこと。そして避難先で避難者として国の責任を追及し、集団移住や原発廃止を行わせることが大事です。国の除染費用は計10兆円、福島県民約200万人で割ると、一人500万円。一人500万円払われれば確実に全員が避難できます。避難費用を除染費用に丸ごと回していることが国の空前の棄民政策の核心です。原発を作った大企業の莫大な内部留保や、福島の「復興」「安全」キャンペーンに湯水のごとく使われる費用を加えれば、東日本の多くも避難できます。実現させていきましょう」と訴えました。
石川春花さん
続けて、14年に東京・高円寺から大阪へ避難した石川春花さんが発言。「一番辛かったのは西の野菜が手に入らず、あっても高いことです。また一緒に反原発デモに行っていた仲間もたくさんいましたが、放射能・内部被ばくになると「気にしすぎだよ」と意見が合わず、「あなた宗教みたい」などと言われ、心が折れました。環状七号線を泣きながら歩いたことがあります。その中で雇い止めをされたので、失業保険をもらいながら大阪で仕事を探そうと思い、移ってきました。当初は知り合いも少なく仕事も見つかりませんでしたが、今ようやくやりがいのある仕事につけています。余裕が出て、同じ避難者の人たちとつながったので、関東の友人たちに「西も楽しいよ、避難しようよ」と言っていきたいと思いました」と話しました。
intellipunkさん・三浦陽子さん
次に14年に東京から神戸に避難・移住したintellipunkさん・三浦陽子さんが話しました。intellipunkさんは「事故の直後に短期間関西へ逃げたが、一度東京に戻って反原発デモをしていました。だが放射能の問題はデモをやってどうこうできることではないと思い、移住を考えました。福島事故は全て2度目のことで、公害で言うと水俣の繰り返し、水俣はずっと被害が認められなかった。それと同じになるなと思いました。またベラルーシ・ウクライナの状況を見れば5年後もずっと関東にいてはまずいなと思い、移住したら何をしよう、ライフスタイルをどうしようと考えました。取るも取らずに避難した事故直後に「これでは続かない」と思っていたので、神戸で二人でパン屋を始めた」と話し、おいしい焼きたてパンを集会参加者に振る舞るまいました。そして「移住はもちろん国・東電の責任だが、移住自体が別の世界、別の人生を作っていくんだと前向きに捉えていくこともしていきたい」と話しました。三浦さんは「食べ物をおいしく食べられるのは幸せなこと。東京にいる時はそれができないことが当たり前になっていました。関西に来て、選択肢が広がり、食べる喜びを取り戻していきました。自分でもみんなが安心して食べられるものを作っていきたい」と話しました。二人のパン屋「自家製天然酵母パン・Pirate Utopia」(Facebookページ:https://www.facebook.com/PirateUtopiaBread/?fref=ts
下澤陽子さん
続けて14年に一家で東京の国分寺市から神戸に避難し、娘さんの体調が劇的に回復した下澤陽子さんが発言。「この1年間で私は穴蔵から出てきて避難者の集まりに参加した。今まではだいたいお母さんが多く、こんなに男性も多い集会は初めてで、今までと全く違う層の集まりだと希望を持ってます。事故の時は『原発』の意味さえわからず、子どもを砂場で遊ばせまくっていました。放射能を気にする周りの母親のことをばかにしていました。事故後も何も生活を変えずにやってきたのです。するとすごく元気だった娘が1年後に肺炎をこじらせて入院しました。「お母さん、気持ち悪い」を連発し、寒気がし、足が痛くて歩けなくなり友達の家に預かってもらったり。それを2,3日繰り返して元に戻るサイクルを繰り返しました。それで遅れて事故のことを調べ始め、「こんなに嘘ばかりだったのか」とすごくびっくりし、被ばく問題も勉強し、自分が娘に何という過ごさせ方をしてしまったのかととても後悔しました。汚染が東京に来ていることも全く知らなかった。病院に行っても「この世の中は放射能だらけ、ちょっと増えたから病気になるなどありえない」と医者に説得される始末。夫にも似たようなことを言われ、すごく仲の良い夫婦でしたが初めて喧嘩し続けました。
でも最後に娘は普通の生活を全く遅れなくなってしまい、のちに岡山へ移住する医師の三田茂先生が「それは被ばくの影響だと思います」と言ってくれたので、夫ともども避難を決意しました。まずは短期間西へ避難してみたら、何をやってもダメだった娘の体調が2日目でも全然変わり、一人で歩いて帰れるようになり、4日目にはプールで泳げた。劇的に変わりました。でも1週間東京に戻るとまた悪くなる。また西へ行けば良くなる。それを繰り返したので神戸へ完全移住を行いました。他にもたくさん話したいことはありますが、みなさんと一緒にやっていきたいと思います。」と話しました。
森宮純さん
また17年2月に東京から大阪へ越してきたばかりの森宮純さんは「東京は人口集中や競争社会の激化で、人間の生活環境としても悪化し続けていることもあって、大阪に仕事を見つけて離れてきました。最初は沖縄を考えて下見に行き、身体がとても楽になることを経験しました。いま大阪でも身体が楽になっている。皆さんとともに、東京で放射能被ばくの問題も大きかったことを学び直しています。避難者の集まりができたので大阪に早く馴染めて、とても助かっています」と話しました。
山の手緑さん
さらに13年に千葉から名古屋へ移住した山の手緑さんは、集会のために来阪して発言しました。「関東では視力が低下し、声が小さくなり、文章も書けませんでしたが、名古屋に移住してから1年目、職場で『声が大きい』という理由で雇い止めをされ、大きなビルの中で一人でストライキが出来るくらい健康が回復しました(会場笑い)。16年には『名古屋共産主義研究会』という小さなグループを作って文章を書いたり集会ができるようになりました」とアピール。今日の集会に来られなくなった仲間の矢部史郎さんからの連帯メッセージを読み上げました。「私たちは2011年の原発爆発以降、放射能汚染を逃れるために、それぞれに移住してきました。放射性物質は目に見えず、音も匂いもなく、多くの人にとって体感することができないものです。かわりに、私たちが経験したのは、国中を包み込んだ嘘、欺瞞、ごまかしの議論、人間が感情を押し殺し、あるいはぶつけ合いながら、社会が壊れていくさまでした。私たちはみな、おおきく壊れていく社会を目の当たりにしながら、この6年を生きてきました。それぞれの人間が移住するにいたった事情は、さまざまです。しかし、この旅の過程で、何も失わないでやってきた人間は、いない。みな、何かを失い、深い痛みと、絶望を、経験してきたのだと思います。これから、もういちど、やりなおしです。この6年間の苦い経験を経て、私たちは強くなりました。闘うこと、いたわりあうこと、人間が生きようとする営みに最大の敬意を払うこと、さまざまなことを学びました。もういちど、出会い直し、つくりなおしましょう。人間と人間がごまかしなく向き合う社会を、つくっていきましょう。矢部史郎。」名古屋共産主義研究会:http://nagoyakyousanken.blogspot.jp/
永井伸和さん
続けて14年に埼玉から大阪へ避難した永井伸和さんが発言。「自分は最初はあまり自覚的な放射能避難者ではなかったため、東日本在住者が被ばくに対してどんな心理に置かれているかを話したいです。最初は事故があってみんな危機を感じましたが、次第に自分の恐怖を自分で抑圧しなければ生活をやっていられなくなったということだと思います。最大の加害者である国・東電の責任が追及されていないので、関東でも、自分の出身地である宮城県でも、『どうにもならないよね』と被ばくを受け入れさせられているのだと思います。関西に来てそうした状況がよく見えました。関東でも東北でも、まずは短期間でも一度移動してみることで、自分がどんな場所で生きているのかを再認識することが大事だと思います。それを避難・移住につなげていきましょう」と話しました。
羽石敦さん
休憩を挟んで後半へ。11年に茨城県ひたちなか市から大阪へ避難した羽石敦さんは「東海原発から10キロほどの所に住んでいたので、99年のレベル4臨界事故を経験しました。当時も屋内退避が設定された。なので3.11直後に「これは危険だ」と思い、事故から一週間後に東京行きの高速バスが再開されたので、それに飛び乗ってまず東京へ行き、そこから大阪へ避難しました。当時大阪は住宅に入りやすい体制が整っていたので入れました。今は市営住宅に居ますが、今年3月末に避難者への無償住宅支援を打ち切るという通知が来たため、このまま受け入れる訳にはいかないと思い、『大阪避難者の会』を作り、大阪市と協議を重ねています。直近では3月22日朝9時半から大阪市役所で協議を持ち、誰でも参加できますのでご参加下さい。避難当初、避難者はランク付けされていると感じました。自分は関東から・男性・単身避難者なので、当時は「なんで避難するの?子どもいないのに?」と全く理解を得られなかった。取材を受けても記事にならない。被害状況に応じてのランク付けをされていると感じて、福島からの母子避難者はAランク、私のようなものはCランクと勝手に自分で感じてました。その意味で関東からの単身避難者も多いこうした集まりは良かったと思います。自分は『原発賠償関西訴訟』の原告にもなり、群馬の前橋地裁では、『本人がどれだけ不安に思ったか』を基準に判決がでました。6月1日に大阪地裁で次回期日があるので、ご参加下さい。」
原発賠償関西訴訟:http://hinansha-shien.sakura.ne.jp/kansai_bengodan/
下澤さん、羽石さんらの体験談が載った『3.11避難者の声~当事者自身がアーカイブ~』ブックレットは「東日本大震災避難者の会 Thanks & Dream」から:http://sandori2014.blog.fc2.com/
まさおさん
同じく14年末に東京の新宿から故郷の大阪に避難したまさおさんは「東京の官邸前抗議などに参加しながら被ばくの危険性を訴えたり、ガイガーカウンターで放射能数値を測ってきました。被ばく問題に詳しい三田茂医師が岡山に避難したことを見て、『医師が避難するならこれは相当だ、また自分自身が避難することが危険性を伝える最大の手段になる。その上で避難支援や訴訟の支援をしていこう』と思って大阪に戻ってきました。放射能も化学物質も、悪いものを体内に取り入れないことが最大の予防策。病気になってから治療をするより、予防の原則が大事。だから避難が必要。チェルノブイリでは事故5年後から晩発性の被害が激増したので、本当に今年以降が命の答え合わせだと思います。だから避難が必要で、みなさんと協力して暖かく避難者を受け入れていきたいと思います。」と話した。
星埜めぐみさん
最後に東京在住で、移住の下見で大阪に滞在中の星埜めぐみさんが発言。「30~50代の仲間に健康被害の増加を実感する。知らないうちにがんになり、会えなくなった人も居ます。自分たちは実験台にされていると思う。それが話せずにうつ状態になっている。先に関西に移住した友人が泊めてくれると言ってくれたので、大阪に下見に来て、とても元気になっている。希望が見えたので、東京に帰って伝えたい。自分は東京で障がい者介助の仕事をしているので、簡単には動けない人がたくさんいることもわかる。そういう人たちとも一緒に考えられる言葉で移住のことを話していきたい」とアピールしました。
後半の質疑応答で、「関西の地元住民も主体的に一緒にやれる運動にしたい」と発言があり、その方法も活発に議論されました。「話しを聞いて実態がよくわかりました。本当にGo West, Come West!ですよ 」と言われ、具体的な仕事や家の情報も提供されました。関西の人々と具体的につながり、社会に向けて出発し、今後に希望の持てる集まりとなりました。