第14回 子ども脱被ばく裁判 原告の意見陳述

本日は意見陳述の機会をいただきましてありがとうございます。私は、原発事故以降の体験でおかしいと思ったことを述べます。

原発事故直後から避難指示区域が半径3キロ圏内、10キロ圏内と広げられるのを聞いて不安になりながらも、当時福島市に住む私は逃げるかどうかを決めかねていました。同時、危篤状態だった相馬市に住む父と付き添っていた母を置いて逃げて良いものかどうか迷いがあったからです。原発や放射性物質の危険性についてはほとんど知らなかったため、我が家は避難指示も出ていないし原発から約55キロ離れているので安全かもと思い、今後原発の様子が悪くならなければ父のところに駆けつけようと考えました。

しかし、12日には国が『何らかの爆発的事象』と発表した水素爆発があり、テレビや知人から「避難指示が出ていなくても逃げた方がいい」「諸外国はチャーター便を出して自国民を逃がしている」「米国などは自国民に80キロ圏外に逃げろといっている」等の情報が入ってきました。日本政府の発表とは正反対の対応ばかりでどちらを信じて行動したらよいのか混乱しました。その頃の報道で強烈に記憶しているのは、当時の官房長官が放射線量について「直ちに健康に影響を与える数値ではない」と述べるものです。私は「直ちに危険でなくてもこのまま福島に居たら健康に悪影響が出るかもしれない、逃げよう」と思いました。しかし、子どもだけ逃がそうにも在来線も新幹線も東京方面へのバスも止まっています。福島空港の便も満席ばかり、仙台空港は津波の被害を受けて機能していませんでした。私が車を運転して逃げるにも偶々ガソリンが少ししか入っておらず、国はガソリンを福島市に運んでくれず、高速道路も通行止めになっていました。国は、「直ちには」と、いかようにでも受け取れる曖昧な表現をし、避難区域を狭い範囲にとどめ、交通網を全て止め、ガソリンも支給せず、国自らがバスを総動員して子どもを避難させることもせず、子どもたちを福島に閉じ込めて被曝を強要したのです。

我が家では11日から断水し12日からの給水では一人3Lでは足りないと危機感を感じ放射線の不安はありましたが、子どもも連れて給水の列に3時間も毎日並びました。事故後閉まっていたスーパーが15日頃2時間だけ開けるというのでそこにも子どもを連れて並びました。ところが店内には一番欲しい生鮮食品は無く、在るのはお菓子類と酒だけでした。既に運送会社は「福島は放射能が怖いから行けない」と言っていることは知っていましたが、それは現実でそれなのに国は食料も持ってきてくれないのだ、私たちを助けないのだと愕然としました。

このようにやむを得ず子どもを長時間外に並ばせたのに収穫はなかったばかりか被曝させられたことは恐るべき被害です。後日の情報ではSPEEDIが当初から機能しており、3月14日には、国は米軍にはデータを提供したのに(2012.1.16東京新聞等)国も県も国民には周知せず、県は、「公表できる内容ではないと判断した」(2011.5.7福島民報)「国が発表するデータだった」(2011.12.27asahi.com)等と述べています。あのような切羽詰まった状況なのに自分達で県民の安全を守る方策を考えず国に追従しただけなら、何のために地方自治体が存在するのかと疑問です。地方自治体も市民を守り抜く対応をする責任があったはずです。

また後日、当時の福島第一原発の吉田所長や枝野内閣官房長官も「3月14日から15日には東日本壊滅」の恐怖感が頭の中にあったと語っています。(「吉田調書」)。そして3月25日には「最悪の場合170キロ圏内で強制移住、東京を含む250キロ圏内で避難を求めることが必要」というシナリオが当時の菅総理に報告されていたのです。ということは、国は十分に事態の危機を知っていたと言うことです。それなのに国民には秘密にされ、私たちはその危機を知らされることも避難指示を出されることもなく見捨てられていたのです。知らされていれば私は、迷わず何とかして子どもを福島から脱出させたでしょう。いいえ、本来ならば国があらゆる交通手段を駆使して避難させるべきだったのです。

3月の下旬ころから私は、なるべく遠方にしばらくの間避難しようと考え始めていました。母親として今まで、健康であるようにと可能な限り精一杯食事や環境に気を付けて育ててきた大切な子どもを、放射能とい植えたいの知れないものに傷つけられてなるものかと思ったからです。それで関西にいくつもの自治体に電話をかけて無償で入居できる住宅はないかと問い合わせました。しかしどの自治体からも「避難指示区域でない方には貸すことができません」と断られました。5月に問い合わせた奈良市の回答も同じでした。悔しいことにこの理由で断られたのは私だけではなく、静岡県や東京都でも拒否されたケースがあったのです。(『ルポ母子避難ー消されゆく原発事故被害者』吉田千亜)。

しかし国は3月19日には、区域外避難者にも公営住宅の利用を可能にすることを明らかにしていました(『環境と公害』2015年4月号)。この事実は、国が出した通知が全国の自治体の職員にも周知徹底されてなかったことを証明しています。これは明らかに過失ではないでしょうか。

あの時多くの人が放射能から逃れようと必死でした。事故直後から被災者が区別されることなく全国の公営住宅に住めることを全国民に周知徹底していたら、初期被曝を避けることができたのです。直に放射線から離れることが最大の防護策との観点から言えば、無償住宅はそれを可能にする最強で唯一とも言える命綱でした。それを確実に繋がなかった国は重大な責任があると考えます。

更に福島県立医科大学は福島県からヨウ素剤を入手し、3月12日から医療従事者に配り始め、その家族や学生にまで配布し、しかも緘口令を敷いたのです。それに対して福島県庁は114万錠のヨウ素剤を集め各自治体に配ったそうですが、結局県民に配られることも服用指示もありませんでした。山下俊一氏の意見が影響したと福島県庁関係者は述べています(『』FRIDAY2014年3月7日号)。しかし子どもたちを福島県内に閉じ込めたのであれば、せめてヨウ素剤を服用させて健康被害を防ぐ対策を講じるべきだったのです。国や県のしたことは子どもたちを守るどころか放射能にさらす行為ばかりだったと言えます。

そして2011年4月19日文科省がいわゆる”学校における「20ミリシーベルト」基準”を通知しました。恐ろしいことにさらに子供の被曝を容認する内容でした。それなのに福島県はそれを受け入れたのです。4月21日に福島県教育委員会と文科省が保護者を集めた福島テルサでの説明会の時、当時の福島大学附属中学校の校長(福大教授)が「3.8μSv/h以上でもなんとか(決められた)1時間より多く工程で活動できるようにしてほしい」と発言したことには失望しました。また私は4月11日頃に子供が通っていた学校に「校内の放射線量を測らせてほしい」と願い出ましたが断られました。すべてが放射線防護の観点からすれば誤った施策と対応だったと考えます。

私たち家族は3月18日に、その日運行再開した高速バスのチケットを運よく入手し、やっと東京へ脱出し数日間の避難ができました。既に15日に大量に降り注いだ放射能に被ばくさせられた後でした。福島駅のバス乗り場では多くの若い父親達が手を振って見送っていました。まるで今生の別れであるかのように。満員のバスの中は東京に着くまで会話もほとんどなく重苦しい空気に包まれていました。東京に着くと誰からともなく拍手が湧き起こりました。無事に東京に着いた安堵感と福島へ戻らなければならない運転手さんへの感謝と無事を祈る拍手だったと思います。

一方東京では人々が笑いさざめきながら行き交い電車や車はひっきりなしに走り、食べ物も簡単に買うことができました。福島では皆が生きるか死ぬかのような判断を迫られて右往左往しているというのに、その能天気な光景に激しい怒りがこみ上げました。政治を動かしている人たちは原発の現場に来ましたか?福島市に来て人子一人いない、店も全て閉まっている市内を歩いてみましたか?恐怖に駆られ究極の選択を迫られて阿鼻叫喚の様相の福島を見ましたか?東京にいて福島の危機が分かるはずがありません。そんな甘い姿勢だから危機感のない無責任な施策ばかり行ったのです。原子力発電所でトラブルが発生した場合速やかに国に報告し、国はそれに基づいてトラブルの発生を公表する、と法律による報告義務があります。しかし東電も国もそれを守りませんでした。おそらく意図的に。

“万が一にも起こしてはいけない事故”を起こしてしまったのにその後も性懲りもなく、国民に判断の材料となる情報を提供せず、避難の判断を国民個人に丸投げしたことは、国民の生命・身体の安全を預かる責任を放棄したと言わざるを得ません。その結果子どもたちは無用な被ばくをし、心身の健康を害し、将来にわたって不安が続いています。非を認めて当然と思うのに「あれも、これも義務はない」と主張してくることは法治国家としてあるまじき姿だと思います。そんな主張が認められるなら法律が国民のためのものとして体を成していないのではないでしょうか。この裁判が法整備につながることを希望します。

原発事故と、その後の行政の誤った非人道的な対応や政策は未曾有の大事件です。裁判所には、前例無きこの事件に対し子どもの健康と命を第一に考えた適正な判断を望みます。

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